2009年05月09日 11:30

あれから3年…母親が語るJ Dillaの思い出

J Dillaの母親へのロングインタビューを要約超訳。

2006年2月に皮膚結核で亡くなってしまったデトロイトの天才プロデューサー・ビートメイカーJ Dilla(Jay Dee)。彼の母親Maureen Yancey(通称 Ma Dukes)が、J Dillaの幼少期から病気と闘った最期までの思い出を、eMusicというサイトのインタビューで語っています。

■ Hey Ma: Maureen Yancey Remembers Her Son, J Dilla(eMusic)

There's a disarming effervescence to Maureen Yancey as she shares memories of her late son, the Detroit producer and rapper J. Dilla. It has been over three years since Dilla passed away from complications related to lupus, yet she speaks of him as though he were still a constant source of amusement and inspiration. When asked if Dilla ever tried her seemingly infinite patience, she laughs: "Of course he made me very mad. For a whole week. He was two years old."

けっこうなボリュームのインタビューです。J Dillaの音楽を尊敬するはしくれの一人として、ファンで共有すべき内容が多いと思い、面白い部分や心にひっかかった部分を中心に超訳して要約しました。誤訳だらけと思いますが、ご容赦ください。

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小さな時からレコードが大好きな変わった子で、兄弟と違っておもちゃには全く関心を示さなかった。2歳のときから毎週金曜日は父親(注:ミュージシャン)と2ブロック先のレコード屋に歩いて行ってレコードを買っていた。彼の選ぶレコードには驚かされた。アーティストのことは知らないはずだから、レーベルで選んで買っていたのかも。

10代になるとカセットテープとドラムマシンを使って地下室で曲作りを始めた。毎日寝るまで。父親がオープンリールを使って録音していたのから学んで、繰り返しテープを巻き戻して、自分なりのテープの技を習得していた。

高校生になると、Amp Fiddlerの家に入りびたるようになった。Ampはスケボーの乗り方からスタジオ機材の扱い方までを彼に教えた。夜遅くまでセッションしていたので、よく学校に遅刻した。

Dillaのところには毎日のように若者がビートの作り方を学びに来るようになった。その中にはEminemとPaul Rosenbergもいた。PaulはのちにEminemの代理人になったけど、もともとはラッパー志望だった。Karriem Rigginsもいた。彼は全然喋らなくて、いい学校に通っているのを知られないようにしてるのがおかしかった。

Ampはすべてのデトロイトの若いミュージシャンをQ-Tipに紹介していた。AmpはDillaもQ-Tipのところに連れていった。その次の日、Q-Tipの代理人から電話がかかってきて、Q-Tipが気に入っているからニューヨークに飛んで来い、一緒に仕事をしよう、代理人を選んでおけと言われた。(私の世話に来ていた)デイケアの先生も含めて、家中のみんなで大騒ぎした。

J Dilla image from http://www.stonesthrow.com/jdillaDillaは2002年に病気と診断されたけど、2005年まで皮膚結核(の一種:lupus)であることはつきとめられなかった。それまではいろんな病名が出てきたが、特定できなかった。(ロサンゼルスの)Cedars-Sinai病院に移ると、15人体制の医者が彼に何が起こっているのか調べてくれた。

彼は言葉を失うほどに驚いて、悲しんでいた。「これまでもずっと病気がちだった。なんで俺が?俺が何したっていうの?」私は何を言っていいかわからず、ずっと黙って座っていた。しばらくして、彼は受け入れた。

彼は悲しんでいたが、涙を流すことは無かった。私に対してよく怒ったが、怒るのも当然。彼が死ぬ思いで人工透析をして苦しんでいるのに、私が泣いたり怒ったりしているそぶりを見せなかったからだ。

彼の病状は、調子良い日もあれば、血小板の数がゼロに近くなって夜を越せないと思わせるような日もあった。医者は彼に様々な種類のマスクを付けようとしたが、彼は「チューブはやめてくれ」と拒絶した。皆は「彼は自分の状況を理解してるのか?呼吸率8%じゃ死んでしまうぞ」と怒ったが、「朝になったら落ちついてるよ」といって聞かなかった。皆は私に(治療を許可する)署名をするよう求めたが、いろんな理由があって、私は彼の言葉を聞き入れ、署名を断った。

医者の理解があって、病室に楽器を持ち込むことが許された。Stones ThrowのPeanut Butter Wolfが赤い小さなサンプラーを買ってきてくれた。piano-guitar(?)や2台のターンテーブルもあった。私は箱一杯のレコードを運んできて、彼はレコードの買い方を私に教えた。

起き上がれるくらいに調子がよいときはレコードショッピングへ出かけた。彼は目を離すと歩行器を置いて勝手に駆け出してしまうので心配させられた。それくらい没頭していた。

私たちは多くの時間を過ごした。退院もしたけど、一週間後には戻って来た。医者は彼に完治する見込みが無いことを伝えた。彼は自分が何に直面しているのかを知り、自分の運命を受け入れた。彼は私に「俺、今日死ぬのかな?」と何百万回もたずねた。これは心から悲しかった。そんなときはいつも「そんなわけないでしょ」と返すだけだった。

Dillaは変わらない。いつも音楽、完全に音楽そのもので、音楽以上。変わったのは、ベースがより低く聴こえるようになって、頭を打ちつけたような気分になることくらい(the bass got deeper, and our heads would thump more)。

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ここまでです。

さて、Vibe MagazineにもJ Dillaの生涯を綴った記事もあって、これがStones Throwのサイトに全文転載されています。

■ The Battle for J Dilla's Legacy(Vibe/Stones Throw)

THREE YEARS AFTER HIS UNTIMELY DEATH, J DILLA'S BEATS AND REPUTATION LOOM EVER LARGER OVER HIP HOP. BUT FOR HIS MOTHER - WHO NURSED THE VISIONARY PRODUCER THROUGH A CHRONIC ILLNESS AND HAS WATCHED HIS ESTATE LANGUISH IN LIMBO - THE STRUGGLE CONTINUES.

ちょっと体力が無いのでこちらの記事は訳しませんが、こっちに主に書かれているのは、J Dillaの死後、彼の資産が管財人に移って凍結され、手元に資産のない遺族が生活に困窮している、という内容です。2009年1月の記事です。

なんでもJ Dillaに税金の滞納があったとかで、そういう問題がクリアにならないとお金が動かせないと。加えて、死後に多くの法的にグレーな作品やブートレッグなどが出回ったことで、訴訟問題を多く抱えることになってしまった。これに対してJ Dillaの弁護士がはりきりすぎて、ミュージシャン側の立場に立つ遺族と弁護士の間で対立が起きているということです。

raise-it-up-for-ma-dukes Tそして、もう一つ悲しいのは、J Dillaの母親がJ Dillaと同じ病気にかかっていることが判明したということです。Stones Throwは彼女を支援するためにTシャツを作って売り上げを寄付しています(→Link)。(追記:10/02/05:遺産問題は無事解決したようです)

Stones ThrowのPeanut Butter Wolfが病床に持ってきた機材で作ったのがラストアルバム「Donuts」。Dillaの手が膨れすぎて動かないときは、母が固くなっていた彼の指を取って作業したそうです。

News : 2009年05月09日 11:30

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