2009年06月27日 09:44

Michael Jacksonについての3つのエピソード - MTV、Prince、Kraftwerk

追悼 King Of Pop。

マイケル・ジャクソンが亡くなりました。大ファンというわけでも無かったのですが、当然のようにアルバムはだいたい聴いてましたし、特に80年代を通過した者の一人として、マイケル・ジャクソンをただの歌手としてではなく、それ以上の存在、「時代の象徴」「アメリカの象徴」「黒人の象徴」として受け止めていました。50歳。残念です。

追悼ということで、マイケル・ジャクソンについて自分の印象に残っていたエピソードと、この機会に調べて深く知ったエピソードを、マニアの中では有名な話ばかりだとは思いますが、3点紹介します。

MTVで最初に流れた黒人のPVは「Billy Jean」では、ない

よく言われる『MTVで最初に流れた黒人のPVは「Billy Jean」だ』という説。26日にやっていたフジの追悼番組でオグラさんも得意げにこの「逸話」を披露していましたが、これは間違いで、MTVはそれ以前にもTina Turner, Donna Summer, Eddy Grant, Musical Youthなどのビデオを流していました。

■ Why it took MTV so long to play black music videos(BNET)

Eddy Grant, Musical Youth and Joan Armatrading were some of the Black artists from that country whose videos were shown during MTV's inception. Tina Turner, Jon Butcher Axis, The Bus Boys and Donna Summer were some of the other Black artists whose videos were shown because their music fit the format.

MTV Logoそもそも81年に開局したMTVは白人ロックの専門局で、たしかに黒人の音楽がプライムタイムに流れることは無かったそうです。とはいえ、「局のイメージ」にフィットしたビデオは少数ながら流していました。フィットしない人代表のRick Jamesは「俺のビデオを流さないのは人種差別だ」とMTVと戦って話題を集めていましたが、いざ署名運動を開始すると、他の黒人ミュージシャンは誰も賛同してくれませんでした。人種の問題もあったのでしょうが、黒人ミュージシャンはビデオを作っていない場合が多かった、とMTVの創業者Les Garlandは釈明しています(Rick Jamesの場合はビデオがダサかったから放送しなかったそうです。→YouTube)。

1983年、そんなところに届けられた「Billy Jean」のビデオ、内容が素晴らしかったので即断でヘビーローテーションが決定されるものの、やはり親会社のCBSから排除の圧力はあったそうです。これを創業者が押し切って大成功をおさめたことで、これに続こうと黒人ミュージシャンがビデオに力を入れ始め、結果MTVが黒人に大きく門戸を開くきっかけになった、というのが舞台裏の流れのようです。当然「Billy Jean」のPVの偉大さに変わりはありません。

「Bad」は元々Princeとのデュエットを意図して作られた

実現していたらどんなだったでしょう? プリンスとマイケルで話し合いの席も持たれたものの、歌詞の1ライン目"your butt is mine(お前のケツは俺のもの=俺の勝ち)"をどちらが歌うのかで揉めて、結局企画はポシャってしまいました。この理由の部分はPrinceが何かのインタビューで語っていたもので、どうも冗談っぽいニュアンスの発言のようです。諸説ありますが、プリンスが「自分が参加しなくてもこの曲はヒットするよ」とクインシー・ジョーンズに断りの連絡を入れた、という説が正しいのではないかと自分は思います。

■ プリンス、マイケルの"Bad"不参加の真相を語る(続・ヒトツログ)

マイケル・ジャクソンとのBADのデュエットを断った件について、真相をプリンス自身がクリス・ロックのインタビューにて語っている映像を発見! 一般的にはマイケルとプリンスがミーティングした際、『ふたりは食事をしている間ずっと黙ったまま。プリンスは「僕が参加しなくても、この曲はヒットするね」と言い残して席を立った。』とされているのですが、それはおかすぃ〜と前々から思ってました。だって仕事なのだし! 本当のところ・・・「自分に用意された役は“ウエズリー・スナイプ風の男”(マイコーの敵役)あれが俺だったかも知れないんだよ。もっと言うと、マイケルの歌詞の最初が"Your Butt Is Mine"なんだけど、それが問題だった。」

チュッパチャップスプリンスとマイケルは敵対しているように思われがちですが、実際のところは自己プロデュースマニア同士が互いに干渉しないよう適度な距離を取り合っていた、という風に見えます。時々マイケルが近づいていきますが、プリンスは逃げてしまう。「We Are The World」にはドタキャンして参加しませんでしたが、アルバムには楽曲「4 the Tears in Your Eyes」を提供しています。この距離感。

■ 1985年1月28日(バー・ニルセン著「プリンス大百科」→Amazon

そのアルバムに曲を贈るのはクールだって言われたんだ。それが、僕たちのどちら側にとっても一番いいことだと思った。僕は自分が知ってる人たちに囲まれている状況のときに、一番良さが出る。そうするほうがいいんだよ。あそこへ行って参加するより、音楽だけ、というほうがね。あんなにたくさんの素晴らしい人たちとひとつの部屋にいたら、黙り込んでしまっただろう

■ チャリティ・ソング特集(2) : USA for Africa(オルタナソウルエイリアン)

また1995年度のアメリカン・ミュージック・アウォードのラストでUSA for Africa 10周年を記念して大合唱大会が行われたのですが、Princeはステージ上にいたにも関わらず、ずっとチュッパチャップスを舐めたまま歌おうとせず、 Quincy Jonesが見るに見かねてマイクを向けると、代わりにチュッパチャップスを「君も舐める?」と言わんばかりに差し出したという伝説が残っています。 Princeは"We Are The World"のレコーディングに参加を表明しながら録音当夜にドタキャンして酒盛りをしていたという「前科」がありましたが、ここまでくるともう確信犯。彼はこのプロジェクトが偽善であると暗に批判していたのでしょうか???答えは風に吹かれている・・・。

(追記 09/7/4:上のblogで言及されている1995年AMAの映像がニコニコ動画にありました。→Link

競演と呼ぶには無理があるとはいえ、世の中に出回っている「競演」は下の映像だけかもしれません。生きてるのはPrinceだけか…。

▲ Michael Jackson,James Brown,and Prince on stage

近年ではプリンスが自分のステージで「Billy Jean」を演奏したことが何度かあります。2000年頃の記者会見でマイケルについて訊かれたプリンスは、ジョークを交えながら「彼が帰れるところを作ってやらなきゃ」と優しいことを言っています(→ニコニコ動画)。

マイケルはKraftwerkに音源提供を依頼していた

80年代のブラックミュージックがクラフトワークからファンキーさを感じていた、という話は様々な形で耳にします。マイケル・ジャクソンもその中の一人で、ファンというだけでなく正式にオファーをかけていたというから驚きです。

以下はクラフトワークの研究本、ビュッシー・パスカル著『クラフトワーク—「マン・マシーン」とミュージック』(→Amazon)からの引用です。

音楽界の各所からクラフトワークに何らかのかたちでレコードに参加してもらいたいという希望が殺到していた。こうした希望を出した人物の一人は、明らかにマイケル・ジャクソン本人である。(略)カール・バルトスは次のように言っている。「マイケル・ジャクソンは1985年か86年、『エレクトリック・カフェ』製作期間中に電話をかけてよこした。彼は『マン・マシーン』のオリジナル・マルチ・トラックを使う許可を得ようとしてたんだ。自分のLPか妹のLP『Control』のためにね。とにかく、ラルフとフローリアンは協力を拒んだ。すごいチャンスを逃したと思うよ。まったく、『打ち解けない』連中だ。」

Kraftwerkコラボレーションやトラック提供ではなくて、サンプリングネタの許可申請のようなオファーです。マイケルはヒップホップやマッシュアップ的な感覚で、例えば「The Robots」のトラックにのせて自作のメロディを歌ったりするような形でクラフトワークと「競演」しようとしていたのでしょうか。

ちなみにマイケルは「スリラー」にYMO「ビハインド・ザ・マスク」のカバーを収録する予定がありました。トラックもすでに作っていましたが、クレジット表記と版権でYMO側と折り合いがつかずボツになったそうです(→Wikipedia)。

クラフトワークとマイケルに話を戻すと、同じビュッシー・パスカルの本に次のような証言もあります。

マクシム・シュミット(注:Maxime Schmitt クラフトワークの元マネージャー)は、マイケル・ジャクソンがクラフトワークの大ファンで、ヒュッターがニューヨーク滞在中にこのスーパースターに会ったと証言している。マクシム・シュミットの言である。「ラルフはニューヨークに彼を訪ねに行ったと言っている。彼の持ち物である個人ビルにね。ラルフが体験談として話してくれたことは尋常じゃなかった。ビルにはマイケル・ジャクソンのクローンがいたんだ。三人か四人は見たという。今度こそマイケル・ジャクソンだと思うと決まってフェイクなんだ。みんなで車に乗ったりするから、どれが本物だかまったくわからない。とってもクラフトワーク的コンセプトだよ…。」

マイケルはクラフトワークのファンでしたが、クラフトワーク、特にラルフ・ヒュッターはファンとしてではなく、競合相手・ライバルとしてマイケルを見ていたようです。「Billy Jean」がヒットしていた時は、「Billy Jean」が製作中だったアルバム「Electric Cafe」を時代遅れなものにしてしまうのではないかと心配して、マイケルの動向に異常に神経を尖らせていたそうです。「Electric Cafe」のリリースが遅れたのには「スリラー」のヒットが少なからず影響しているかもしれません。

--

Princeの言う「彼が帰れるところ」を世の中が用意できなかったのが彼の早世につながっているような気がして残念でなりません。追悼と称して沈痛な表情をしながらスキャンダル映像を掘り返すテレビの報道には辟易しますが、時間が経ってこうした喧噪の嵐が通り過ぎれば、マイケルは純粋に音楽そのものとして永遠に輝き続けることになるのでしょう。合掌。

■ 追記:09/08/07
Princeとの「Bad」の話題で引用したブログの文章にブログ「続・ヒトツログ」の文章を丸々パクった箇所があったことがわかりました。引用部分を「続・ヒトツログ」のものと入れ替えました。「続・ヒトツログ」いつも拝見してます。

■ 関連サイト

Text : 2009年06月27日 09:44

ブックマーク

Yahoo!ブックマークGoogleBuzzurlニフティクリップlivedorr clipdel.icio.usはてなブックマークMichael Jacksonについての3つのエピソード - MTV、Prince、Kraftwerkのはてなブックマーク数

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL :
http://www.spotlight-jp.com/matsutake/mt/mt-tb.cgi/330

このエントリーへのトラックバック :

プリンスの"21Nights"記録を破りたかった?マイケル・ジャクソン [続・ヒトツログ]

8月13日にモナコで2公演を行う模様のプリンス(LF.comにて、...

2009年08月07日 13:16